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もちろん、現在の第2場は、そこから大きく逸脱しています。例えば、冒頭の場面「願い候ふ」では、村人が豊作祈願にこと寄せて、様々な個人的祈願も行います。それらのセリフは各自で考えてきて、リハーサルのときに口に出します。「それ、いいですねぇ」「却下!」など、様々なやりとりが飛び交います。練習初期に、私の下原稿ともいうべき台本が提示されるのですが、最終的にはほとんどが失われ、あるいは変化して別モノになってしまいます。その制作方法のダイナミクスがみなさんに伝わればと思っているのですが。
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但し、こういう作り方の利点というか難点(?)は、練り上げられながらも、常に変化し続けるということで、昨日まで憶えていたセリフがパーになることなんて日常茶飯事。どんどん変わってゆく。例えば、第3場最後の印象的なシーン(どんなシーンかは具体的には伏せますが)は、9月11日のリハーサルのときに突然思いつかれました。前日まで、全くなかったシーンが5分ほど生まれるのです。こういう状況ですから、照明担当の人との事前打ち合わせの意味が、ほとんどなくなってしまう・・・。厄介な作り方としかいうほかありません。何しろ、台本や楽譜の最終稿がつくれないのです。 |
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場ごとに、野村さんは作り方の基本線(例えば「将棋作曲」「即興演奏」・・)を決めます。それに従って、私たちは自分の意見をどんどん出してゆく。本当に効率の悪い作り方かもしれません。時間がかかる。しかし、こういう「プロセス的手法」は、作品が本当に血肉化してゆく。それはまさに自分たちの血肉から出たものですから、共振の度合いが強烈です。リハーサルを見に来た人は、その混沌に驚くかもしれません。そして、私はその混沌を最終的に必然の流れへと導き出してゆく、野村さんの能力に改めて舌を巻くのです。 |
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