そんな思いで開始したのですが、やっていくいうちに、当初の動機は背景に退き、様々な興味深い問題が出現してきました。例えば、『桃太郎』のストーリーと、それがもっている歴史的な「負の側面」です。桃太郎は、第二次大戦中には、日本の侵略の正当化のためのキャラクターになりました。日本が「善」で、鬼畜米英が「悪」という構図のなかで、しかも、その「悪」の対象は米英のみならずアジアにまで拡大されて、桃太郎としての日本は侵攻していったのです。このような桃太郎の登場の仕方は、豊臣秀吉の朝鮮半島遠征にまで遡るようです。実に重苦しい役割、キャラクターを桃太郎は背負わされてきたのです。ですから、教育の現場では、今日でも桃太郎には若干のタブーがつきまとっているようです。桃太郎自身には責任のないことですが、桃太郎という物語を単なる無邪気な民話として子供たちに伝えるには、無条件にOKという訳にはいかないようです。 |
|
そんな状況から桃太郎を救出するというのが、僕の『桃太郎』に対する一つの目線となりました。そのためには、桃太郎や鬼の意味あるいは役割の転換が必要です。あるいは、もっと根本的な構造の転倒・・・・。そして、僕は(というかマルガサリは)後者を選びました。それを具体的に書いてしまうと本日の舞台を見る楽しみや驚きが減ってしまうので、ここでは控えますが、結果としては『桃太郎』は決定的な変更を蒙ることになってしまいました。本来ならば4場で終われるところを、僕たちの恣意によって、未知ともいうべき第5場を設営することになったのです。 |
|
いずれにせよ、桃太郎を、上記のような「桃太郎像」から解放することには成功したと思います。しかし、そのために更に大きな荷物を背負ったことも確かです。その荷物の正体は何かということが第5場のテーマです。その荷物をすら投げだそうとは考えていません。背負い続ける意味や価値のあるものとして、あくまで前向きにとらえていきたいと思っています。が、・・・・・『桃太郎』は本当に第5場で完結するのでしょうか。 |
|