いったいこんなことをやってどんな意味があるのかと自問するときがあります。大阪の公演パンフレットには、障害のある人とともに「アートの地平を広げるのだ」と書きました。明らかに、これまでのアートとも違うし、現在のアートの閉塞的な空気を打ち破る力をもっていると思います。障害ある人のアートは、これまでアール・ブリュット(生の芸術)とかアウトサイダー・アートというジャンルに囲い込まれて、正当にアートとして評価されることはなかった。そうじゃないんだ、ここには新しいアートの芽がある。障害というひとつの個性のなかから生まれてくるものが確実にある・・・。そういう意気込みで、私はやっています、というか、やってきました。エイブルアートが生まれてきた歴史的文脈もある程度は分かっているつもりです。でも、「新しいアート」っていう存在理由みたいなもの、そういう言説は必要でしょうか?
 
 これまでのアートの文脈を批判しながら、そこに自らを組み入れていこうとすることに、僕は最近、違和感を感じています。これをアートと呼ぶ必要はあるのだろうか?
 
 アートと名づけることによって、またそこで何かを失っているような気がするのです。少なくとも、たんぽぽの家のメンバーには、アートをつくってるんだという気負いなんかなさそうです。じゃ、遊びなのか? それでもないような気がする。今回、やまなみ工房の方たちと出会いました。とても新鮮で、たんぽぽの家のメンバーとの最初の遭遇を思い出しました。そして、一緒に声をだしたり、鈴を鳴らしたりのセッションを始めました。実に愉快でしたが、そのとき、「アートをつくってるんだ」という気持ちをもったらアウトだということに気づきました。
 
 
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