通例の音楽や舞踊教育というのは、ある美的価値に沿って身体技術を究めてゆくものですが、それは逆にいえば、その他の可能性を排除する過程でもあります。私は考えました。彼女たちの指し示すアートを差し置いて、もっと面白いアートを私は設定できるだろうか、と。私の想像力の範囲のなかでは「ノー」でした。むしろ、彼女たちのアートを追っかけることで、これまでにない表現をつくれるのではないかと思ったのです。例えば、奥谷はるみさんの歩く姿。これは360度どの方角からみてもサマになっています。自身の身体の制約のなかで最も楽しく歩きたいという意志がカラダを突き動かすとき、これ以外にはありようがないだろうという、ぎりぎりのバランスの歩きが出現するのです。ある意味では究極の機能美であるともいえます。私たちは、これしかないだろうという最高の歩きを、パフォーマンスでこんなに易々とできるわけがない。素直にかなわないわけです。マルガサリメンバーの舞踊家、佐久間新も大きなショックを受けました。一緒にやる私たちの身体や感性もまた再編せざるを得なくなる。それが私にとっては最大の冒険のように思いました。
ですから、双方(マルガサリとたんぽぽ)が何かを教え合ったり、教え込んだりするのではなく、瞬間に湧きあがってくる動きの生命感を消さない、その灯をもっと明るく照らそうという方法に落ち着いたのです。
 
 もちろん、「さあトーマス」はお客さんに向けての表現ですから、自分たちだけが面白くてはいけない。他者の眼や耳といったものを、同時に持って鍛えていかねばなりません。そのあたりが一番難しいでしょうか。私は、この他者の眼や耳を、実際のお客さんのなかに置き返し、いっそのこと眼や耳だけじゃなく、身体ごと共有する=参加してもらうというスタイルにしました。要するに、全員がパフォーマーとしてこの公演に参加していただいたら、最も楽しめるのではないかと思います。これまた無責任でしょうか。
 
 
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