Gamelan Marga Sari 天の音 2004


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ようこそ スペース天へ

山懐に抱かれ堂々と建つこの建物では、四半世紀ほど前まで、
日本でも有数の良質な寒天を生産する「寒天工場」として稼動していました。
今はひっそりとしていますが、そのころは寒い冬にこそ人々が集まり、
てんぐさをゆがくための大きな二つの釜からは、
あっちこっちに開かれている天窓に向かってもうもうと湯気を沸き上げ、
活気に満ちていたといいます。

役目を終えて静かに眠っていたこの古老(寒天工場跡)に、
1997年、中川真はひょんなことで出逢います。
今にも崩れ落ちそうだった古老が「スペース天」として息を吹き返すまで、
中川真は彼と逢い対し、彼の言葉に耳を傾け、
そして話し合ってきたようです。
そんな彼の再生への物語を、語ってくれました。

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寒天から天へ…再生への物語  〜1998年 オープニングコンサート プログラムノートより〜

 語り : 中川 真(スペース天 代表)

image  今宵はようこそお越しくださいました。アートのための新しいスタジオ「スペース天」が誕生しました。天というのは「寒天」の天なんです。この建物は古くからの寒天工場でした。しかし、地球の温暖化と経済構造の変化によって、亀岡、能勢、豊能方面の多くの寒天工場が閉鎖され、ここ牧の黒田卓三さん所有の西工場も、20数年来使われることがありませんでした。

 ところが、ひょんなことで太田保育園長(亀岡市)の鈴木格夫さんと知り合い(彼が僕のスタジオ探しのアドバイザー)、そのつてで黒田さんを紹介してもらいました。初めて寒天工場を見た、昨年(注:1997年)8月末のことを思い出します。それまで亀岡市から始まって、何軒もの空き家を見て回り、交渉不調のために少し元気をなくしていた僕と鈴木さんの前に、威儀をただした古老のような(でも崩れ落ちる寸前の)木造工場が現れたのです。僕は直感的にここにしようと思いました。すぐにその気持ちを伝えると、黒田さんも鈴木さんもあきれたような顔をして、「ま、とにかく直るかどうか大工さんに聞いてからにしては」と、はやる僕を諌めるのでした。

image  僕にしてみたら、直ると思ったのも、そしてきっとここでガムランがいい音をするだろうと思ったのも、本当に直感で、何の根拠もありません。ただ、優しげな初秋の風景のなかに、寒天工場なんだから、きっと冬には厳しい寒さが待っているだろうなぁ、そんな自然の厳しさのなかで音楽を追究できたらすばらしいのではないか…という禁欲的な願望がほの見えてきたのです。確かに冬は厳しかった。なにしろ、壁といわず天井といわず、至るところ蒸気抜きの空洞が、この建物にはあるのですから(どうか上方を見渡してください)。室内でも簡単に氷が作れました。そのいっぽうで、冷たい空気ばかりではなく、周囲の竹林や小川からの様々な音もまた、内部に浸透してくるのです。真冬ですと、小雪がちらちら降るなか、もずなどの鋭い声が、僕の胸を貫きました。内であって外、これがこの建物の特質です。

image  あと100年や200年は大丈夫というお墨つきをもらって、地元の大工である和田庄司さんに棟梁をお願いし、すべて地元の人々による改修工事が始まったのが、10月10日のことです。阪神・淡路大震災で折れた煙突、その衝撃で穴のあいた屋根、長年の風雪で崩れ落ちた壁…。あらゆるところに「荒れ」の記号が見出せます。でも、楽しみもありました。昭和の初期の落書きです。リアルな壁画と非現実的な言葉の数々に、とても切ない心が刻まれていました。それもまた、いまや新しい壁のなかに埋め込まれています。

image  この工事には1枚の図面もありませんでした。この辺に窓を、あのあたりに扉をなどと、口から出任せの指示に、おそらく和田さんたちはどれほど困惑したことでしょうか。でも、どこか楽しそうでした。きっと、それはこの建物の「徳」だと思うのです。ひとりでこの建物のなかに居ると、ほんとうにこの建物は生きているのではないかというほどの気配を感じます。ひっきりなしに屋根は何かをしゃべっています。そんな人格(あるいは神格?)のようなものを感じます。きっと、思い入れの強い僕の勝手な想像でしょうが。しかし、この建物に「助けてください」という気持ちをもっているのは本当です。どう助けてもらうのかは分かりませんが、例えば今宵のイウ゛ェントでも多くの人々から助けてもらい、また思いがけない体験をするかもしれません。まぁ、大仏の手のひらに居るようなものなんでしょうか。

image  工事が始まるやいなや、荒れた工場は、人間とのコミュニケーションを再びもつようになりました。なんとなく建物の「顔」ができあがっていくのですね。化粧というのも変ですが、ほっておかれた肌の汚れを落とし、きれいなクリームが塗られてゆく。建物が照れているのがよく分かりました。何度写真でとっても、ちょっと霞んだようにぼけるんです。内部は見事に整地され、腐った柱の一部が取り替えられ、以前からの骨組みは完全に残しながら、世紀の(?)改修は12月の末に終わりました。あと10年遅かったら直せんかったなと、和田さんに言われました。というのも、若い大工さんではもはや知識・技術的に直せないからです。和田さんも70歳を越しており、確かにあと10年先だったら、こんな大変な仕事は無理だったかもしれません。ということで、僕にとっても、建物にとっても幸運な出逢いでした。

image  入り口の両脇に置いてある大きな釜を見てください。ここで活躍していた釜です。なんとガムランの形に似ていることでしょう。これは「神さま」だと思いました。黒田さんが、この釜をどけましょかと言ってくださいましたが、絶対に置いておいてほしいと僕はお願いしました。2つ、でーんと座って僕たちを見ています。いや聴いています。このなかでどれほどの寒天が生まれたのかは知りませんが、これから釜はここでの音の証言者になっていくのです。どんな音が釜の中に満ちていくのでしょう。

image  工事の期間中に、多くの訪問者がありました。というか、無理矢理僕が連れてきたのです。しかし、成果はありました。インドネシア音楽研究で有名なマントル・フッドさんは、オープニング・コンサートに1曲作ってやろうと言ってくれました。それが今宵マルガ・サリの演奏する「グンディン・シン」です。「真さんの曲」という意味で、なんだか気恥ずかしいのですが、曲は颯爽とした感じのものです。また、フッド先生には芭蕉などの俳句(春の句を3つ)をテクストとした新曲も委嘱中で、これは、他の季節のものと合わせて、将来「ガムランの四季」というシリーズ作品になる予定です。でも「四季」だなんて、絶対インドネシア人には考えられませんね。なにしろあそこは「二季(乾季と雨季)」ですから。フィリピンの作曲家ホセ・マセダさんも、俳句をテクストとした「竹とゴングのための音楽」(1997)の再演をここでやろうと言ってくれました。これは地元の小学生と一緒にやりたいですね。美術家の西純一さんは、2つの釜に合わせて、2匹の狛犬を描いてくれました。この4月28日にできたところです。そのほか多くのアーティストがここに来て何かを生み出しつつあります。そうなんですね。ここには何かを生み出す力がある。それを確信して、今宵のようなちょっと大げさなイヴェントを企画したのです。

 さて、紙幅が尽きてきました。今宵に至るプロセスのなかで、本当に多くの方々のお世話になりました。改修工事では、照明プランをしてくれたオリボーさんに、それから今宵のコンサートの出演者のみなさん、テントやパイプ椅子などの備品を貸してくださった豊能町教育委員会、ピザ釜を作ってくれたダイチャンに感謝いたします。また、ちょっと内輪の話になりますが、ここに置いてあるガムラン楽器は白木のまま輸入され、いま亀谷彩さんを中心とするグループが、せっせと漆を塗ってくれています。何回も何回も途方もない時間をかけているのです。まだ途中ですが、きっと来年の今頃には目にも綾なガムランになっていることでしょう。そういった献身的なサポートにも感謝したいと思います。(きっと感謝を言い忘れている方々がさらにおられると思います。ゴメンナサイ。) それでは、長い長いコンサートですが、どうぞ最後までお楽しみください。そして、これからのスペース天をどうかよろしくお願い申し上げます。

1998年5月2日

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